18年間患者会に関わって思うこと

1995年に乳がん患者会が発足しましたが、それは医師の主導の基で

私は外科外来にいた為、手伝いのような感じで始まりました。

18年前です。総会、相談会、旅行と今と同じようにありましたが、医師主導でしたので

私達や役員さんの活躍の場は、今と全然違っていましたが患者さんは「医師の話しが聞ける

る」「イベント」あり、「旅行」ありでそれなりに充実はしていましたが

2人のナースの負担は大きく、総会の準備は9時から行い、移転する前の講堂は2階にあり

全て階段を使い、降りたり、上がったりの繰り返しで、催事が済むと2人で片付け

夕方6時頃くたくたになって、惣菜を買って帰り、翌日は仕事とハードであった。

いろいろないきさつで病院側の理解は得られず、2人ナースの負担は多かったし

病院の職員はこの会をほとんど知らなかった。

会を重ねる内、色々な役員さんの協力もあり、会員の数も増えて、旅行の人数が多く

バス2台で小豆島の旅に行った事も今は懐かしいが、大変であった。

5年ぐらいして吉岡さんが外科に配属になり、一緒にこの会を続けていった。

御幸に病院が移転してからは、渡辺医師は患者会は患者さんがするものであるが

話しをしてくれと言われればするというので、会合の度に話しをしてもらった。

ナースも増え、村上さん、賀出さんが加わり、役員さんも替りながらも

確実に充実した会になっていったと思う。色々な方からイベントの情報を得ながら

連絡し、会員さんに喜んでもらうことが活力になったが、相変わらず病院の患者会に対する認識は薄く

会も日曜日に行う為、外科外来ナースのみが関わるという感じで

この会を知らない職員がほとんどであった。会の準備していても「きょうは何事?」

と聞かれる。17年間こんな状態ながらも役員とナースがお互い助け合い進めてきた。

転機が訪れたのが、私が家の事情で病院を辞める事になり、今までは外科外来が患者会

事務局になっていたが、病院側が事務局はもう出来ないと言われ、17年関わってきた私

患者会を露頭に迷わすことが本意でなかったので、事務局を自宅に移し、患者会

患者主導にすることにし、私の立場は事務局兼顧問看護師しとした。

本当に患者主導で出来るか、最初は不安であり、ドクターが転勤になり患者も病院を

変わることを与儀なくされ、会員は減るだろうと覚悟し、少なくなっても継続することが

大事と思い、一つ一つ大事に行事を行ってきた。

何か問題があれば役員さんと常に話し合いしながら、また共に勉強会やピンクリボン活動

に参加してきた。約1年過ぎ患者主導で出来る自信がつき、外に向けた活動をと計画したの

が、ばら祭りであった。本当に井の中の蛙であった私達であるが、行動力と結束があった。

ばら祭りで乳がんの啓発活動しますと応募したが、祭り委員会の方は引き受けてを探して

下さり{無知とは恐ろしい}何度も電話頂き感謝です。

それからはリーフレット乳がんモデルの手配、所構わず電話、メールを皆でし、集めた。

1ヶ月半でよく集めたものだ。これも無知な私達に沢山の温かい手が差し伸べられた。

只、純粋に乳がんの啓発活動をしたい!!!

この思いだけでこんなにも大勢の方々の力がいる!と気づかされた2日間だった。

そして会員の皆も思いは同じで、相互の協力体制はばっちり!!!

私は夢中だった。失敗したら助けて下さった方々に申し訳ない気持ちで夜も眠れないほど

プレシャーは大きかった。蓋を開ければ大勢の方が乳がんに興味をもち、私達の話しを

聞いてくれた。1番の成果は乳がん体験者が「私も乳がん体験者で抗がん剤もしましたが

こんなに元気ですよ」と堂々と声に出して言えた事、それを聞いた観衆は驚き、聞くのも

真剣だ。そんな光景を見ながら、やっと我々の会も1歩を踏み出した感がした。

長いような短いような18年であったが、苦労が報われたと初めて実感し、しかも

初めての経験にホームテレビさんが「福山アンダンテ」のドキュメンタリー番組を

作りたいとの申し出に諸手を上げて「お願いします!」

月曜日が待ち遠しいし、反響が楽しみだと誰彼と電話しまくっている。

4日はピンクリボンdeカープ大いに楽しもう!!!!!!!
           事務局 藤井のつぶやきでした